原初のモノの性状はAussi(それもまた)で他者に無関心、後付けで
Un「個」排他に変化して弁証法否定が始まる。AussiからUnに変化する仕組みが分からないからヘーゲルの言う通りに信じるしかない。
 部族民通信ホームページ 投稿 令和7年5月5日  発足開設元年6月10日
 
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蕃神(ハカミ)義男
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  La Phénoménologie de l’Espritヘーゲル精神現象学 
第二章II LA PERCEPTION OU LA CHOSE ET L'ILLUSION知覚モノと幻影 2回目 

 
   La Phénoménologie de lEsprit精神現象学ヘーゲル 知覚モノと幻影2

IILA PERCEPTION OU LA CHOSE ET L'ILLUSIONI (2回目) 

(2025年4月30日)Jean Hyppolite(ドイツ観念哲学を仏語圏に紹介、ソルボンヌ哲学教授、高等師範学校長など歴任、本書仏語版は名訳(難訳)と知られる、1907年~68年パリ)仏語訳のヘーゲル精神現象学の紹介を続けています。

II章の前文(前回1回目)とIの部「 Concept simple de la chose モノの概念の単純」を紹介する。

« L'universalité étant son principe en général, sont aussi universels les moments se distinguant immédiatement en elle : le moi comme moi universel, et l'objet comme objet universel » 93)

普遍性は存在するモノの原理、他の2の要素も普遍である。それらは私(悟性)、そして対象である。

son principe sonl’étant存在=前文。 Momentsを要素とした。前文にある特性 propriété と同一と見るが、肯定否定など弁証運動が起動する特性にmoments要素を用いる。Introduction導入章では弁証法の「節目」と訳した) 。

 « les deux moments qui tombent en dehors l'un de l'autre seulement dans leur manifestation, à savoir : l'un, le mouvement d'indiquer, l'autre ce même mouvement, mais comme quelque chose de simple ; le premier, l'acte de percevoir, le second, l'objet » 2の要素が、自己表現を見せながら、互いに離れて浮かび上がる。曰く前者はモノを規定する活動、後者はその活動自体である、単純に言うと前者は知覚行動、後者は対象。

 « Selon l'essence, l'objet est la même chose que le mouvement. Le mouvement est le déploiement et la distinction des moments, l'objet est leur rassemblement et leur unification »

対象を実質として見ると、それは運動そのものです。その目的は要素を分別し展開させる、ゆえに対象は要素を集合し統一している。

続いて; « Pour nous ou en soi, l'universel comme principe est l'essence de la perception, et en regard de cette abstraction les deux moments distingués, le percevant et le perçu, sont l'inessentiel » (同)理性あるいは悟性そのモノ( Pour nous ou en soit直訳では我々ないし彼自身の律自。複数「我々」を理性、「単数」は悟性に部族民は意訳する)にすれば、原理としての普遍は知覚の実質である。更に抽象を進める(知覚を運動させる)と2の要素が浮かび上がる。それは「知覚する」と「知覚される」となる、これらは非実質である。

部族民:ヘーゲルはモノと思考(そのモノ)の属性を前者は実質個別、後者が普遍に色分けする。抽象化を進展させると(考え始めると)、知覚する行為、知覚されるモノに換わる。それらは(知覚されるモノ含め)非普遍に変身する。

(別の言い方)我々、個が(脳みそに)持つ理性悟性は実質、考え始めると対象が浮かぶ。その浮かぶ対象は非実質です。前文の訳「知覚の実質は普遍、原理として」これが、知覚活動に入り非実質l'inessentielにすり替わる。実質の知覚が行動(indiquer指し示す、抽象化する)すると「le percevant 知覚する、 le perçu知覚されるモノ」が現象の野に出る、それらは現象故に非実質l'inessentiel

Introduction導入章(前出)では悟性が考えるとは「現象の野に己の基準を浮かべる」と説明されています。実質ながら考え始めると非実質に歩みを進めるーこれと同じ工程を本章で繰り返します。

次文が考える非実質のからくりを明らかにする。 « le percevoir comme le mouvement est quelque chose d 'inconstant qui peut être ou ne pas être, et est l'inessentiel » (94頁)運動としての知覚は、なにがしか継続してはいない。それはありうるかも、ありえないかもしれない。故に非実質じゃ!(ここに表題の知覚と幻想の意味合いが浮かんでくる)

  « La richesse du savoir sensible appartient à la perception, non à la certitude immédiate, car c'est seulement la perception qui a la négation, la différence ou la multiplicité variée dans son essence » () 知の卓越した能力は即座の蓋然にあらず、知覚に由来する。なぜなら知覚は否定、区別、様々な累層を抽象化できるから。(知覚はモノの同時的な能動特性を峻別できる)

以上;I部の前文では対象(モノ)は実質。理性悟性もそのモノである限り実質。しかるに(考え始めると)知覚は人の思考(現象)活動なので非実質が強調される。では非実質(知覚)が実質(対象)を見て、何やらの判断することは可能か?その手法は ? 前文に続くI, II部で論じられる。

 

I部の本文 Iの部 単純なモノの概念 « Le concept simple de la chose »

 « Le ceci est donc posé comme non ceci ou comme dépassé. Par là le sensible est lui-même encore présent, mais non comme il devrait l'être dans la certitude immédiate, comme le sanglier visé, mais comme universel ou comme ce qui se déterminera comme propriété » (94) このモノはかくして「無いこのモノ」、「越えられたモノ」として置かれる。無いモノながらそれを視認させ得る能力は残る。しかし即座の蓋然であったらそのように視認するだろうが、個別のモノとして見るのではなく、普遍として、あるいはその特性から特定する形で残ることとなる。

(知覚が対象を見ると、見えるままの姿として捉えられる。それは必ず越えられる(dépassé)仮の姿なので非普遍なのだ。特性が形成する姿、越えられるコトを前提とする姿を(知覚を発動して)捕らえよとヘーゲル先生は教える。なお前文最終文にある「la perception qui a la négation……知覚は否定、区別、累層抽象化」の意味は、知覚にすれば眼の前のモノの特性には否定され得る普遍性が含まれると読み、それを引き継いだ文)

 « Le dépasser présente sa vraie signification double que nous avons vue dans le négatif. » (94) dépasser 越える (止揚する、Hyppolite脚注を参照) は複合する2の意味を、先に説明した通り、否定として表現する。 « Il a à la fois le sens de nier et celui de conserver ; le néant, comme néant du ceci, conserve l'immédiateté et est lui-même sensible, mais c'est une immédiateté universelle » それ(前文の dépasser 越える)は否定すると合わせて保持する両の意味を持つ。無とは「このモノ」の無であり、それでも即座を保ち、視認される。それは一種の即座の普遍である。

Hyppolite脚注:越えるdépasserはドイツ語 « Aufheben » アウフーヘーベン。(邦訳では弁証法の止揚)

脚注2 La propriété, le ceci sensible dépassé, est le véritable objet de la perception, qui, dans son développement, donnera naissance aux deux moments extrêmes, à l'Universalité de la choséité, à la singularité absolue de la chose. 特性とは畢竟、越えられるモノとして表現され、それが知覚の真の対象である。この特性は運動する際に2の対極を生み出す、「モノであること」の普遍、そして「モノの絶対個別」である。

部族民:ヘーゲル修辞を解釈:モノ個体は実質、個別の存在として「在る」。個別であるゆえ「絶対」である。一方、モノであることchoséitéは多層する特性(塩なら白い、辛い…など)を内包し経時的に、同時的にも否定をうける。この肯定否定の特性は実質になり得ない、そして「普遍」となる。知覚はそれら特性(肯定否定を)覚知する。

部族民2:アウフーヘーベン止揚とは dépasser 超えられた状態で、モノは無néantに陥ると語る。しかしそれは感じ取られる無である。消え去った無を知覚が認識する。「ceciモノそのもの」の絶対個別が否定され無に果てても、「モノであることchoséité」の普遍が知覚には見えている。

(動画での中休み。これ以降は下)

Propriété特性は複層する、しかし互いには相混じらない。特性の運動に何らかの決定因が後付されて、決定素déterminabilitéとなる。この主張の一文は: « Etant exprimées dans la simplicité de l'universel, ces déterminabilités, qui deviennent vraiment des propriétés seulement par l'adjonction d'une détermination ultérieure » 94頁)単純である普遍のなかで運動するそれら決定素(モノの性状を決定する)は、(能動的特性に)後付される決定因détermination ultérieureの作動により真の特性(否定する特性)となる。

これがl'une la négative de l'autre他方を否定する特性である。それは対象の(弁証法)活動の流れで後付される何かを得て、排他性がとりつく。

この弁証法が展開する個、そのモノを « le milieu » 場という。  « Ce milieu universel abstrait peut être nommé la choséité en général ou la pure essence » (95) この場はまさに抽象の普遍であり、これをして「モノであること」、あるいは純粋実質と呼ぶ。

この後に最初に引用した塩の話が開陳される。« Ce sel est un ici simple et, en même temps, est multiple ; blanc, sapide, de forme cubique… » ここに置かれる塩は単純にして複層する(前出、331日投稿を参照)。特性の特質Aussi 「それもまた」に論が進む。

 « Mais lêtre est un universel, parce qu'il a en lui, la médiation ou le négatif ; quand l'être exprime cela dans son immédiateté, il est une propriété distincte et déterminée. Alors sont posées en même temps beaucoup de telles propriétés, l’une la négative de l'autre »

しかし存在は普遍である。なぜならそれは介在とその否定を内包するから。存在がその状態を即座に表現すると(今は朝と表現する)その時点で分離、特定できる。そして同時にこうした多数の特性が存在に据え置かれる。一の特性は他者の否定となる。

 « Vraiment des propriétés seulement par l’adjonction d'une détermination ultérieure » (95頁)決定因の後付けによって正しく特性となる。

上の引用2文は何が何やら分からない。そこでこう考えた;本章は経時的弁証法から抜け出し、同時性の弁証法を解説している。経時は分かりやすい(今は夜が、時間の経過で朝に)、同時性の弁証法は分かりにくい。ましてヘーゲルの主張は「特性は累層するが干渉しない」。一体何が同時弁証法の起動因となるのか。

 

2025423日)もし特性が互いに無関心であって、それ自身がモノと対峙しているだけなら(今までの説明、これがAussiです)、それら特性は確認されない。

 « si les multiples propriétés étaient entièrement indifférentes les unes aux autres et se rapportaient ainsi seulement chacune à soi-même, elles ne seraient aucunement propriétés déterminées » 累層する特性が、それぞれ他者に完璧に無関心であり、ただそれ(モノ対象)との関わりを維持するのみであれば、それら特性は特定されている(弁証法に参画できる)とは言えない(96頁)。(なぜなら特性とは他者と対立することで自身を区別しているのだからーが続く)

 

 













 
Jean Hyppolite
素晴らしい脚注を載せてくれた。
おかげで部族民もヘーゲルを
少しは分かってきた














ヘーゲルは精神作用
を3段ロケットとして分析した
1悟性が抱く基準
2感じる蓋然
3知覚
   

 « Celui-ci n'est donc pas seulement un Aussi, unité indifférente, mais encore un Un, unité exclusive. L’Un est le moment de la négation en tant qu'il se rapporte à soi-même d'une manière simple et exclut autre chose ; de cette façon la choséité est déterminée comme chose » (96)

それ (この場=前文のmilieu) Aussi(それもまた)複数の無関心特性ではない。Un(大文字のUn, 「個」と訳す)の排他性、も息をしている。Unは別の特性を排除するという単純作用で他者と交流する。

Aussiそれもまた、が、Un排他に変身するモノ「普遍」の原初的仕組み)

HyppolitePassage de l'unité positive à l'unité négative, de la choséité à la chose. 肯定的組から否定する組、モノである事からモノ自体、への移り替わり。

部族民:Aussiのままでは弁証法に向かわない。何やらの仕組み(Unに他者を否定する作用の追加=後述)を持ち込む。その過程は探るに、他者に無関心で肯定のみの場milieuが原初にあった(弁証法での肯定)。それは「モノであること」、しかし無関心だけの特性は存立が不能で、各自が己を特定する運動に入る(塩の白特性が、明確に白と自己定義する)。排他となる。

(理解できていない部族民が)この辺りを尋ぬるとヘーゲルは優しく箇条書きで教えてくれる;

Ce sont ; a) l'universalité indifférente et passive, le Aussi des multiples propriétés, ou plutôt des matières. まず無関心で受け身の普遍性が(場を支配していた)。累層する特性「それもまた」の構えであるが、それ以上に(弁証法の)素材と言えよう。

b) la négation non moins simple, ou le Un ; l'exclusion des propriétés opposées. Un俺様一匹の性状は否定でその事情は至って単純、対立する特性を排除する。

c) les multiples propriétés elles-mêmes, le rapport des deux premiers moments, la négation se rapportant aussi à l'élément indifférent et s'y répandant sous la forme d 'une multitude de différences, le point focal de la singularité s'irradiant en multiplicité dans le milieu de la subsistance. 累層する特性がうごめく、2の要素の原初の出会いは、無関心を装う対抗者にも、関与を重ね否定に仕向ける。かくして個別性(互いが否定し合う)の核が幾重もの光条をこの実体内部に放たれる。否定を起点とする弁証法が始動する(96頁)。

Iの部の最終文は: « quand cette universalité sensible les rassemble l’un avec l'autre ; ce rapport de l'universalité sensible aux purs moments essentiels accomplit seulement la chose » (97)

この感じ取れる普遍性(前文、肯定の組み合わせと否定するそれが両立するモノ宇宙milieu)が、それらを抱え込み、その普遍(弁証法)が、実質特性の交流する狭間において、モノが乗り越えられる(アウフーヘーベン、dépassé超えられたモノとなる) 。

I部のまとめ。「モノchose」と「モノであるchoséité」ことを述べる。モノは特性を持つ、塩は白い。モノであるとは、それら特性は互いに無関心であり、弁証法の野に放たれて他者を排他する。この否定される状況は知覚perceptionのみが、それを認める。肯定から否定へ、弁証法の発動と知覚による現認である。

La Phénoménologie de lEsprit精神現象学ヘーゲル 知覚モノと幻影 II LA PERCEPTION OU LA CHOSE ET L'ILLUSIONそのI部の 続き(2回目)の 了 (423日)










 
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