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デカルトの自由は « liberté d’indifférence » 無関心の自由と定義されている。無関心の意味は「選択において己に利得があるかないか」への無関心であり、他者強制もはねのけて、過程においても結果にも、後々の悔いを覚えてはならないとする心境(volonté)
と、実行(vertu)、それら絡まり心情の生きる等身行動であるとする。
明治初期。文明開化、富国興産は国家の課題であり、これら計画を促進するために欧米の文明技術工業の導入は活発だった。インフラを導入するにはシュープラを知らねば効率が悪い。思想、思考も大いに勉強した。其の中で;
libertéなる概念に出くわし先達が自由と訳した。自由の含意は元なるフランス語の用法と正反対の概念を打ち出しているのだが、ここに落ち着いた。この博識が誰かには各意見あるが福沢諭吉との指摘は多い。この語は漢籍に用いられ用法は字面通り、己の気まま思うまま(大字源)とある。原義と訳語の乖離が気になるので、まずはデカルトを読もう ;
« La liberté d'indifférence,
pouvoir de se décider indépendamment des motifs ou sans raison. Le terme est
pris en 2 sens ainsi exposé par Descartes : L'indifférence me semble
signifier proprement cet état dans lequel la volonté se trouve, lorsqu'elle
n'est point portée, par la connaissance de ce qui est vrai, ou tout ce qui est
bien, à suivre un parti plutôt que l'autre ; et c'est en ce sens que je
l'ai prise quand j'ai dit que le plus bas degré de la liberté consistait à se
pouvoir déterminer aux choses auxquelles nous sommes tout à fait indifférents »
(無関心の選択、低い程度の自由を説明します)無関心の自由、理性目的から独立して決められる能力。この語はデカルトによって2の方向性が暴かれている。(ここからデカルト)無関心とは以下の状態であると強調したい。発心(行動を促す意思)が真実は何か正しいのは何かの認識の支えを受けないまま、こちらかあちらかを選ぶ状態、これをして最下位の自由とした、言い換えれば我々がそれら事象に何も知らずに決定を下している状態です。
(上文をしてー何も知らない粗忽者が闇雲に決め事に向かうーこの状況ではない。知徳の高い方、自分は全て知っている、だからこれが最善だと決める。しかしその知識が間違っているーこれが最下位の自由)。もう一つの自由は:
Mais peut-être que par ce mot d'indifférence, il y en a d'autres qui
entendent cette faculté positive que nous avons de nous déterminer, à un ou à
l'autre de deux contraires, c'est-à-dire à poursuivre ou à fuir, à affirmer ou
à nier une même chose.
この無関心の語には別の可能性がある。前向きの無関心の力で、それは前述にしているが、対立する一か他かを選択する力であり、一の事象にたいして突き詰めるか逃げるか、肯定するか否定するかのきめる能動性です。
(選択する力=自由をヒトは持つ、これが前向きの能力とデカルトが曰う)
« Une entière indifférence en
Dieu est une preuve très grande de sa toute-puissance. Mais il n’en est pas
ainsi de l'homme, lequel, trouvant déjà la nature de la bonté et la vérité
établie et déterminée de Dieu, et la volonté étant telle qu'elle ne peut se
porter que vers ce qui est bon, il est manifeste qu’il embrasse d'autant plus
volontiers, et par conséquent d'autant plus librement, le bon et le vrai, qu'il
le connaît plus évidemment ; et que jamais il n'est indifférent que lorsqu’il
ignore ce qui est de mieux et ou de plus véritable. Et ainsi l'indifférence qui
convient à la liberté de l'homme est fort différente de celle qui convient de
la liberté de Dieu »
神の持つ究極の自由は彼の絶対性のあかしです。しかし人はその力など持ち合わせない。人は神のご加護で良心、真実の性質をすでに持つ。故に発心は良きあれ、とする方向にしか発せられないから、人は自由意志を抱え、言い換えれば自由のもとで、明確に知っている真実と良きことを(無関心のままに)希求するのだ。人はより正しい、より良いとは何かを知らない時には無関心ではない。故に人の無関心の自由は神のご都合の無関心自由とは異なる。(良い、正しいと知るとき、人は無関心の心情で選ぶ)
« Cette indifférence que je
sens、lorsque je ne suis pas emporté vers un côté plutôt
que vers un autre par le poids d'aucune raison, est le plus bas degré de la
liberté, et fait apparaître plutôt un défaut dans la connaissance qu'une
perfection dans la volonté ; car si je connaissais toujours clairement ce
qui est vrai et ce qui est bon, je ne serai jamais en peine de délibérer quel
jugement et quel choix je devrais faire ; et ainsi je serais entièrement libre,
sans jamais être indifférent »
私が受け止める自由のなかで、いかなる理性にも裏付けられず、こちらを取るかあちらかを選ぶ局面でしか決断できないは、自由の最低位であり、そこには発心の精緻さどころか知識の欠陥が露呈されるだけだ。なぜならもし(ここからは仮定法、デカルトでさえ到達していない神の世界)私がいつでも明確に、正しい事と良い事を知るならば、いかなる決断もいかなる選択も私は身に課せるはずだ。そうなれば私は完璧に自由になれる、決して一度ならず無関心のままで。(Descartes Méditations IV)
哲学者はそれぞれの言い回しに癖(修辞)が感じられる。デカルトの修辞は論理を段階的に積み上げない。上の例文を部族民流に段階整理すると ;
1
自由とは無関心を持って旨とする。しかし無関心の自由とは神だけが実践できる。なぜなら神は全知全能、判断選択の場に臨んで、その事象の選択結末に無関心でいても、最善の選択をする(最善は神とっての最善で、人に最良などは問えない)
2
人の選択判断も無関心でなければ自由とは言えない。ここで問題が、人は予め神から判断して選択する能力を与えられている(デカルトの第2の自由能)、無関心で判断すると、人は神の全知全能を備えないから、誤る(これが最下位の自由)。
3
もし私デカルトがすべての良きことを知った上で無関心の自由を行使したら、必ずや良き選択を取ることになる。しかしそれは無理だ。
4
故に考えて神に近づくしかない(Cogitoの自由)
訳を探すに諭吉はlibertéなる語にまといつく、デカルトの教え無関心を知っていただろうか。知っていたはずだ。それ故に訳語の選択に悩んだ。デカルトの自由が本邦で遣われる「自由」とは反意に当たると諭吉は「知っていた」と部族民蕃神は信じる。明治期知識人は令和投稿者など足元にも及ばない、博聞強記である、デカルトもカントも自在に導入していたはずだ。証左となる一文をここに;
<福沢の西洋事情にはlibertyを日本語訳することの困難さを述べており、自主・自尊・自得・自若・自主宰・任意・寛容・従容などといった漢訳はあるが、(いずれも)原語の意義を尽くさないとする>(Wikipediaから引用)。
レヴィストロースは「悲しき熱帯」で、西洋東洋の思想の交流においては根本において欠落があるとしている。意味論の絡繰りから欠落を説明している。
« le malentendu entre l’Occident et l’Orient est d’abord
sémantique »(Tristes Tropiques、悲しき熱帯169頁)西洋と東洋の誤解はまず意味論においてである。
« ce sont les formes d’existence qui donnent un sens aux idéologies qui les expriment
: ces signes ne constituent un langage qu’en présence des objets
auxquels ils se rapportent »(169頁)現実の形体が思想に一種の方向性を与えた。すると思想はその形体を表象として表出する。この相互関係は思想が表象する主体が、客体として存在する形と結びついた時にのみ、言語となりうる。
説明;思想(idéologie)に形体が対峙することをもって意味関係が成り立つ。
言葉が形成されるとは思想と形体が結びつくからで、片一方しか存在しなければ、意味論の構造が崩れる。意味をなさない。
諭吉が「自由とは無関心の自由」と叫んでも、そんな自由を日本人はイメージできない(実体として理解できない)。ここに日本と西洋の意味論上にて疎通障害が発生する。日本人の自由とは「己がやりたいことを実行する」これが自由です。例えばある老人が「カツ丼」を食いたい、食いたいモノを食らうが自由だと主張した。彼は自由を実践していないとデカルトに叱られる。
美食を堪能したい自我、空腹を満たす食欲に支配されているだけです。これが「自らが由しとする」自由なので、老人はそれが自由だと信じ切っている。彼がデカルトの無関心の自由を昼飯で実行するとは、一旦、カツ丼幻想を振り払い、天丼でも親子丼、たこ焼きだって構わぬ、こうした「無関心」の心境にたどり着いて、なんとなく実践する。
Cogitoの自由 了 |