Certitudeを「蓋然」と訳した。この語の「定性」的語感を採ったからである。ヘーゲル全集では「確実」と訳されている。このあたりにも解釈の差が浮き出るかと思うのだが。



 部族民通信ホームページ   投稿2025é年1月31日  開設元年6月10日
主宰蕃神(ハカミ)義男        部族民通信  ホームページに 哲学のページに   

精神現象学 La Phenomenologie de l'Esprit Jean Hyppoliteの仏語訳
第一章 Coscience悟性の章 第一部 LA CERTITUDE SENSIBLE, LE CECI ET MA VISÉE DU CECI
(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界) 上

 
 

(本稿のブログ投稿は2025123日に開始、全4回)

(2025年1月28日) これまでの流れ:前回、精神現象学のブログ連続投稿(20249~12月)では導入章Introductionを採りあげた。理性の目的は絶対知Savoir absoluを得るに尽きる。ヒト思考の活動とは現精神象であるから、モノ世界の実質には接触できない。理性は自身の内に現象の野を広げ、モノ実質の絶対知に迫らむとする。今回、本文に入り(第一章Conscience悟性)では思考の仕組み、特に悟性内部の思考の展開(前回で思考は2段ロケットとした、今回はその2段目に当たる)を解説する。

本章を読み解く鍵語 1Certitude sensible感じる蓋然 2Immédiat即座 Médiation 介在 

NégationAffirmationDétermination否定肯定決定(弁証法)

1 Certitudeの定訳は確実、必然など。これらには定量性(99%か?)の含意が強い。蓋然は(推定するけどそれが真実か分からない)定性的な語感を表すので、本章の趣旨により近いと思う。「あり得るかな、無いかな」の精神作用でモノを観察(感じるsensible)を言う。またCertitudeの語彙には主体か客体かが不定であるが、本稿では主体とする。

2 即座 Immédiat はモノを判断するとき、見えるがままをそのモノとして判断する作用。これがヒトの判断の一般的とした上で、その観察は最も貧しい真実しか見つけられないと批判する(cette certitude se révèle expressément comme la plus abstraite et la plus pauvre vérité. Page81. この蓋然=モノを即座に見る=の見方では抽象的かつ貧しい真実しか求められない=後述)。介在はモノに(必ず)付属する「属性」(ヘーゲルは属性を用いていない)。「今は夜」なる真実には「夜」が介在し、モノ今、を規定する。一方でそれは「不定」との観点から論を広げる。

3 介在を否定肯定する過程がモノの普遍universel。即座で観察してしまう「実体essence」ではなく、変遷(経験)dialectiqueを観察する。この弁証法を、蓋然として取り入れなければ、モノの真実を掴めない。

以下本文に入る。第一の文; « Le savoir, qui d'abord ou immédiatement est notre objet ne peut être rien d'autre que celui qui est lui-même savoir immédiat, savoir de l'immédiat ou de l’étant. Nous devons nous comporter à son égard d'une façon non moins immédiate, ou accueillir ce savoir comme il s'offre, sans l'altérer en rien et bien laisser cette appréhension indépendante de toute conception » La phénoménologie de l’Esprit Conscience 81頁).

拙訳:知ること、これが第一にかつすぐさまに我々(理性)の目的であり、即座の知であり存在するモノへの知でもある。理性は少なからぬ即断をもって存在モノに当たる。あるがまま知として受け入れ、何かに置換する試みなど廃し、他のいかなる受け止めから独立して、この理解を尊重するのである。

« Le contenu concret de la certitude sensible la fait apparaitre immédiatement comme la connaissance la plus riche, comme une connaissance, certes, d'une richesse à ce point infinie qu'on n 'en peut trouver aucune limite, ni en extension, dans l 'espace et dans le temps où elle se déploie, ni en pénétration, dans le fragment extrait de cette plénitude par division. Cette connaissance apparaît, en outre, comme la plus vraie ; car elle n'a encore rien écarté de l’objet, mais l'a devant soi dans toute sa plénitude. » (同)

感じる蓋然(la certitude sensible)の具体的内実がこの独立した理解を、豊かな認識として現出するに至る。その認識とは時間空間にいかなる限界もないうえ、細分され破砕に溶け入る展開の様など見せない。さらには最たる真実として認識に現れる。なぜならこの真実は対象から離れていない、対象を見えるがまま、横溢さで自の前においているから。

部族民(蕃神ハカミ義男、以下同じ):本章の主題は牾性conscience、その働き方。牾性がモノの普遍を理解する精神作用がcertitude sensible、「感じる蓋然」と訳した。Certitudeなる語は、主体客体の両用が可能となるという理解しにくい側面を持つ。 客体としての使用では「確実なモノ」との意味合いになろうが、本稿では「主体」として精神内に動く蓋然、として用いられる。精神が理解しようとするモノ世界とは「そうかも知れない、そうでないかも」不確実が残る。これをして蓋然と訳した。またHyppoliteは脚注で « La certitude sensible vise … » と動詞を続けているから主体とほのめかしている。これで安心した。(最初の一読では客体。モノの蓋然と想定したら、分けワカメで沈没した)








 
ヘーゲル精神現象学La Phénoménologie de l’Espritの仏語訳初版本(1937年)出版直後にドイツ軍パリ入城(39年)となり、ヘーゲル著作は禁書扱いになった(マルクスが禁書、マルクスを生んだヘーゲルは忌避)。現存する数は限られる。






本書第一頁

   

ヘーゲル精神現象学 本文Conscience悟性の章 第一部LA CERTITUDE Conscience悟性の章 第一部 LA CERTITUDE SENSIBLE, LE CECI ET MA VISÉE DU CECI(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界) 上の続き

上引用文(前回の最終行、感じる蓋然は見えるがままにモノ理解を、まずは、もっぱらとする)で留意すべきは2点 ;

1      悟性がモノ世界を見る、モノは「豊かな認識」として映し出される。ここでの覚知作用は「即座immédiat」。対象を「存在そのものétant」として認識する。

2      上記1の結論は「モノは形状を持つ、それは永遠無限、非溶解。時空と自己の形状に」存在としての制限はかからない。

モノ世界を見つめるヒトに共通した精神です。しかし

 « En fait cependant, cette certitude se révèle expressément comme la plus abstraite et la plus pauvre vérité. De ce qu'elle sait elle exprime seulement ceci : il est ; et sa vérité contient seulement l'être de la chose. De son côté, dans cette certitude, la conscience est seulement comme pur moi, ou j'y suis seulement comme pur celui-ci, et l 'objet également comme pur ceci » (82).

しかしこの蓋然は最も曖昧(抽象的)にして、何にもましての貧しい真実を明らかにしてしまう。モノの身の内を単にそんなモノ(ceci)と表しているに過ぎない。そのモノは「存在する、真実はモノとしての存在のみ」と語っているだけ。こうした思考作用の悟性は「純粋な個」でしかない。あるいは個は純粋な「その者」かもしれぬ。向かい合う対象にしても純粋な「これ」でしかない(としか覚知していない)。

部族民:3の引用文で本章主題のすべてが出揃った。

1 「単にそんなモノ」とは時空に存在し、個(牾性)に即座に覚知されているにしか過ぎない。この即座はモノが時空の中で進行変遷する、この普遍を掴めない。別の意味では「今、見えているモノ」には普遍が備わらない。モノ変遷のカラクリ(弁証法)に悟性が気づいていない。

2 (行外に)モノ世界は弁証法に統治される(前回925日~の導入章の紹介投稿)。永遠として氷結固定するモノ理解は悟性に「貧しい真実」のみを反映させるだけである。

 « Le Moi n'a pas la signification d'un représenter ou d'un penser des moments divers, et la chose n'a pas la signification d'une multitude de caractères distincts ; mais la chose est, et elle est seulement parce qu'elle est. Elle est ; c'est là pour le savoir sensible l'essentiel, et ce pur être ou cette simple immédiateté constitue la vérité de la chose. La certitude également, en tant que rapport, est un pur rapport immédiat. La conscience est moi, rien de plus, un pur celui-ci. Le singulier sait un pur ceci ou sait ce qui est singulier » (同)

私(大文字の私、悟性ではなくモノを見ている私)には、いろいろな時間軸、節目(moments)を思考し表現する意味合い(能力)はない。モノにしても種々性質の集成である身の内は見えない。モノはそこにただ存在するだけ。存在するからそこに在る。知にはそれは実質である。純粋な存在、あるいは純粋な即座がモノの真実を決めている(と早とちりする)。蓋然にしても(モノ世界)との交信は純粋「即座」に制御されている。悟性とは私、純粋(単純)な「この者」である。個別性は純粋(単純)なこのモノを理解するし、それが個別であると知る。

部族民:悟性は「純粋な即座性 cette simple immédiateté」を持ってモノを取り込む。モノが見えるがまま、真理としてしまう。しかしここに誤りが宿る。最後の句 « Le singulier sait un pur ceci ou sait ce qui est singulier » 個別性は純粋なこのモノを理解は「個別的悟性は純粋な個別のモノしか理解しない」と読みます。Purを純粋と訳したが、日本語の「前向き語感」はフランス語のpurには必ずしも含意されない。Immédiat即座の言い換えなので「単純」が正訳であろう。

 

 « Mais dans ce pur être qui constitue l'essence de cette certitude, et qu'elle énonce comme sa vérité, il y a encore bien autre chose en jeu, si nous regardons bien. Une certitude sensible effectivement réelle n'est pas seulement cette pure immédiateté, mais est encore un exemple de celle-ci et de ce qu'il y a en jeu » (同)

しかしこの単純存在がこの蓋然の実質となっているし、この単純が己の真理と蓋然は強弁している。正しく観察すれば、組をなす別のモノがある。感じる蓋然(la certitude sensible)の実効的実際は、単純な即座判断のみではないと気づく。これ(単純な即座)の傍証(exemple) ながら、そこに伴うとある組の存在に気づく。

(原文引用なし)この純粋存在の脇にある対が見えている。それは「その者」の個と対象(un celui-ci comme moi et un ceci comme objet)である。この差異(純粋存在に対峙して「個」と「対象」の組が居座ること)を省察すると、個も対象も即座immédiatementには、蓋然に取り込まれてはいない。介在médiationを受けている (médiatisé) と理解に至る 。

 « j'ai la certitude par la médiation d'un autre, la chose précisément, et celle-ci est aussi dans la certitude par la médiation d'un autre, précisément le moi » (同)他のあるモノの介在をもって個は蓋然を得る。それはモノである。これも蓋然のなかで別のモノの介在を受ける、いわばそれは個である。

部族民:悟性がモノ対象を見る、見えるそのものを概念化する、これをImmédiateté即座性とする。モノには介在が備わる、その介在の例「今は夜」などの例をあげる=後述。対象の即座性を受け入れてそれを概念化すると表象としての即座になる、しかし時(場)の変遷でこの単純真実は破れる。モノには久遠の、永遠地平の真実はない=前述=につながる。




 
第一部の題名と訳
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3の鍵語と解説
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    第一部 LA CERTITUDE SENSIBLE, LE CECI ET MA VISÉE DU CECI(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界) 上 の了

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